残響の熊野 牛尾武 素描展より 

荒光

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農村部の石垣

 以前、台湾の方と話をした中で、今も印象に残っていることがある。それは「頑張れ」という言葉についてであった。日本人はマラソン競技な どで必死で走っている選手に「頑張れ」と声援を送る。選手は一生懸命走っているのにもっと頑張れとはかわいそうではないかという内容であった。この話には 実に考えさせられるところがあった。
 私は他人にはつい頑張れとか努力しろとか言ってしまう。ところが自分にはめっぽう甘い。頑張ることや努力す ることは実は好きではない。できることなら避けて通りたい。ただ現実はまず一歩踏み出し着実に歩みを積み重ねて行かなければ、何事も成就できない。私はす でに半世紀も生きている。しかし何一つ成就できていない。これも自業自得なのか。
 そんな私なので自分では何も造れないのに、始末の悪いことに人工で造られた物が好きだ。特に建造物には興味がある。
 さまざまな材料で造られた建造物の中で、巨大な自然石を加工して造られたものがある。見ていると少し重厚すぎて疲れるが、長い年月を経ても現存している物が世界のあちらこちらにある。ピラミッドやローマ遺跡、万里の長城など信じられないような物もある。
 しかし、田辺にもそれらに負けない素晴らしい石の建造物が存在している。「そんな物あるのか」と言われるかもしれないが、近くの農村に行けばすぐに見つかる。
  子どもの頭くらいから大人の握り拳くらいまでの大きさの石が、一見無造作に積み上げられた石垣のことだ。熊野の地形は海からすぐに山となり、平野と呼べる ような所はほとんどない。その環境の中で人々は生き抜くために、山の斜面を階段状に整形しそこに石垣を造り家を建て、平地だけでは足りない耕作地を補うた めに田や畑も同じ方法で造った。
 石垣の前に立ち、ゆっくりと見つめ、まず手のひらで石に触れその感触を全身で受け止める。そしてそっと耳を当て、かすかに聞こえてくる声に心の耳を傾けると、われわれの魂を揺さぶる物語が流れ出ている。
 積まれてから長い年月、石垣は耕地を守り皆を見守り続けてきた。
 車や重機のない時代、石を大量に集め運び、幾多の失敗の中から獲得した技法で一石一石丁寧に積まれた石垣。そこにはどれほどの血のにじむような努力の日々が費やされているのだろうか。中には高さが優に5メートルを超すほれぼれするようなものもある。
 石でありながら血が通い、生きているかのようである。先人たちのたゆまぬ努力が魂を吹き込んだのだろうか。その前にいると自然と涙がこぼれ、美しさに驚く。
 われわれのごく身近な所にこのような石垣が存在していることに気付いていただきたい。

(文 高山寺住職・曽我部大剛)


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