残響の熊野 牛尾武 素描展より 

高山寺

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高山寺(縄文の息吹)

 戦前の高山寺は大きな松でうっそうとしていたという。私が幼少のころ、境内には大きな松が数本残っていて、その中の1本が「天狗(てんぐ)松」と呼ばれていた。
 子どもであった私は祖母や父から、龍神山(上秋津)の天狗が空を飛んで神島に遊びに行くという話をよく聞かされた。途中、天狗松の枝に降りて一服していくというものであった。
  今回の絵は高山寺を背後から描いたものである。正面から描かれたものはいくつかあるが、背後から描かれたのは初めてだろう。龍神山の龍神の使いである天狗 の目になって北の方から口熊野を見てみよう。国道42号バイパスの切り通しの北側山上から高山寺の山や市街地、田辺湾を眺めると、はるか昔の口熊野の姿が 浮かび上がってくる。
 現在の高山寺の山は、西側が鉄道敷設により先端部分が消滅し、北側と東側は旧国道42号で上田山(がんだやま、現むつみ団地)と分断され、独立した小さな丘になっている。以前は稲成町荒光の奥深くまで続く丘陵の先端に位置していた。
 8千年ほど前からこの場所で生活する人々がいた。縄文人と呼ばれる人々である。口熊野にも縄文文化が栄えていたことは、貝塚等の存在により確かである。
  8千年ほど前の海水面は、現在の水位とほぼ変わらないそうだ。それから数千年かけて徐々に上昇し、現在の市街地の辺りは海に没し、高山寺の山は湾曲した岬 となって入り江を形成した。南側はすく海で北側は現在の国道42号バイパス奥辺りまで海水と淡水の混じる大きな湖となり、干潮時には広大な干潟となったの であろう。
 このころの縄文人は春から秋にかけては海辺で魚介を捕って暮らしていたというから、高山寺の山はそんな場所であったろう。田辺湾に面 した所では大きな魚や磯の貝を捕り、北側ではハマグリやカニなど干潟の食物を手に入れることができた。山の中には池があり、容易に真水を手に入れることも できた。生活するには格好の場所であった。それゆえに5千年以上、使い続けられたのであろう。
 彼らの生活の中にも何がしかの信仰があったと思う。
 古代から続く信仰の場には、奇岩や巨木、そして山そのものが精霊の宿る場所としてあがめられることが多いが、森の中に突然広がる何もない空間も精霊が降りて来る場所としてあがめられている。高山寺の山の場合は後者であるのかもしれない。
  高山寺は仏教院だが、ここに住んでいるもっと大きく深い何かが仏教を包み込んでいるという感覚に落ちてゆく。仏教が日本に伝来して今日に至る時間など、縄 文人たちが過ごした長い年月に比べれば大したものではない。彼らの祈りの膨大な積み重ねが、この場所の至る所に溶け込んでいる。その空気感が弥生人に受け 継がれ、仏教寺院となった今日も流れていることを感じる。
 たまたま仏教寺院がこの地をお借りしているだけで、縄文人の文化は今日のわれわれの文化の奥深くに脈々と流れている重要なものであると思う。この事に早くから気付いていた人がいる。南方熊楠である。
  神島や磯間日吉神社、高山寺にある糸田山王神社、龍神山は南北にほぼ一直線上に並び、天狗という共通の存在が介在している。熊楠が愛し守ろうとしたこれら の場所は、単に珍しい植物や粘菌を採取するためだけのものではなく、熊楠はここから太古の先住民たちの何かを感じ取り、人類共通の深層意識に潜む秘密を見 つけようとしていたのではなかろうか。
 てんぎゃん(天狗)と言われた熊楠の人並みはずれた嗅覚(きゅうかく)は、われわれには感じ取れない縄文人たちの痕跡を的確に見つけ出していたのだろう。

 (文 高山寺住職・曽我部大剛)


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