残響の熊野 牛尾武 素描展より 

田辺祭

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田辺祭(上)

 子どものころ、私が住んでいる稲成から会津川に架かる橋を渡って旧市街に行くことは、田舎から都会に出るという感じであった。今でも旧市街に行く時は「まちへ行って来ます」と言っている。
 田舎の子どもがまちの子どもと本格的に接するのは、中学生になってからである。
 当時は1学期の終わる日が田辺祭の宵宮であった。まちの子たちは、7月ごろになるとけいこをしたり、大人たちの準備を手伝ったりしているようで、祭りのことが学校内でも話されていた。
 そんな中で、友達がとても印象深い話をしてくれた。「お笠(かさ)の人形は蚊に刺されへんように夜は蚊帳を張るんや。」私は本気でお笠の人形が生きていると信じた。ところが、いつの間にか私は「人形が蚊に刺されるなんでないよな。子どもを脅す大人のうそに違いない」と考える、つまらぬ大人になっていた。
 この話がとても重要なことを教えてくれていると気付いたのは、それからかなりの年月がたってからである。
 田辺祭を長年にわたって催し、支え守っている人々の心意気が、蚊帳を張って人形を大切にするという行為となっているのだと気付き、自分の浅はかさに恥じ入ってしまった。
 祭りの人形は単なる人形ではない。神が宿られる人形であり、祭りの間は人形は神である。
 一般に初夏に行われる祭りは、厄よけを願うものが多い。夏は疫病が流行り、日照り、大雨、台風と災難が襲いかかる。この災難を払うために祭りが行われた。
 昔の人々にとって、今日よりはるかに切実な思いがあったのは想像に難くない。そこには真剣な神への祈りがある。
 田辺祭は口熊野随一の祭りである。さまざまな変遷を経て笠鉾(かさほこ)の引き回しの形となって現在に引き継がれている。かつて笠鉾を持てるようになったことは、口熊野の経済が充実し、それにつれて町衆の力もついてきたことを意味しているのだろう。
 笠鉾になっても後も細部に変遷があり、例えば笠鉾の上部に乗る人形や作り物を毎年替えたり、お囃子(はやし)も変化したりしているようである。その一方で、同じ人形で貫き通している町もある。それぞれの町の主張があり自由であったことは、厳しい封建社会の中できつく抑圧された日常を一時的に解放するのも祭りの大きな役割であったことを思わせる。

(文 高山寺住職・曽我部大剛)


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